競争社会の弊害

何かを一つや二つの事例で判断するのは良くないことは知っている。ここに書くこともそんな類である。だから最終的な判断は皆さんにお任せしたい。

私が子供の頃のことだ。法事で母方の実家に行ったとき、途中の停車駅でソバを食べることになった。停車時間が十分あったからなのだと思うが、子供の私には短すぎて、ソバを食べ切れない。叔母と母は、早く食べるようにうながすが、発車時間が迫る。ベルが鳴る。しかし、その後、車掌の声が響いた。

「大丈夫だからゆっくり食べなぁ」

そうは言われても、急いで食べるわけではあるが、お蔭様で、無事帰還できたわけである。

これを現代の風潮に合わせて考えてみようか。まず、車掌の仕事は時間を守ることである。時間を守らなかったことによって生じる不利益は、敢えて時間を守らなかった車掌が負わなければならない。それは、日常では問題ないかもしれないような、あらゆる可能性がある。JR西日本宝塚線の事故のような可能性も含めて。通常、その責任リスクに対して車掌はどのような行動をとるべきか。答は明かで、1秒単位で時間を守ることである。

「熱血教師ほど、人権を侵害しやすい」というのも似たような話だ。誰しも、恩義にになった先生には感謝していると思うし、そういう先生に出逢えたことに感謝している人もいると思う。ところが、特定の個人に対して、積極的な指導を行うことは、指導を行われた児童・生徒の人権を侵害する可能性がある。そして、それだけでなく、逆に指導されなかった児童生徒に対しても侵害している可能性がある。この段の話は、そういう指摘だと思う(勿論、積極的な指導に対して、児童生徒が追いついて来ないことによる教師の苛立ちが原因になることもあるだろう)。そのようなリスクに対して、教師はどのように対処するだろう。これも答は明かだ。一人一人の行動に対して深入りせず、不干渉の立場を守ることだ。そうでなければ人権侵害で訴えられる可能性が高くなる。

自由競争社会では、「機会を均等にする」ということが前堤になる。それは、誰かに特別に融通することを厳しく禁じることである。その結果、社会環境はギスギスしたものになる。JRの事故もそうである。ずっと以前、悲惨な事件があった。学校の校門を定時に閉めることになっていた学校があった。遅刻をしまいと、閉まりかけの門に飛びこみ、挟まれて死亡した生徒がいた。何処から遅刻か、遅刻でないのか、を明かにしたい場合、それが個人的な判断でなく、自動的に行われ、平等に扱われるようにするには、このように門を閉めるのはは明解な手段であったわけだ。そして、その犠牲になってしまった生徒がいたのだ。

われわれは本当にこういう社会を望んでいるのだろうか。